にじまくら終了後、
いろいろと抱え込んでいた事々の締め切りが
いっきにやって来て(もっと早くやっとけばこうはならなかったよね)、
忙しかった。
ひとつひとつが片付いて、
だんだんと余裕が出てきたら緊張も緩んだのか、
体調を崩しっぱなしでした。
先週は1日も店に出られないくらいしんどかったけど、
ようやく今日から店番復活。
各方面にご心配おかけして、申し訳ありませんでした。
ぼちぼち調子を取り戻しています。
せっかく落ちたぜい肉だけは取り戻したくないが・・・。
このところずっとブログを更新しようという気が失せていて、
なんでだろうなー、と思っていたのだけど、
そういえば本を読む時間とかホントになかったのだった。
やっぱりまとまった文章を読むということは、
それだけ想像力や思考力を刺激するということなんだな。
言葉に強烈に働きかけるのはやっぱり言葉で、
それは映画や写真や他の芸術作品よりもずっと力強く、
直接的にアプローチされるんだな。
とかしみじみ思った。
考えはまとまらないけど、
いろんなものを読んだり観たりしたので、
リハビリがてら、ちょこちょこ書いていきます。
昨日はDVDで「v for vandetta」を観た。
ナタリー・ポートマンが主演のやつ。
ガイ・フォークスとやらのお面(最近はアノニマスで有名らしいですね。)
を被ったアナーキーなヒーローは、
実はマトリックスのエージェント・スミスがやっていたのだそう。
ヒューゴ・ウィービングという俳優。
しらなかった、プリシラの人だった。
俄然ファンになってしまった。
そしてナタリー・ポートマンの美しさは奇跡だな。
この映画は「マトリックス」3部作の制作メンバーが多く関わっている。
脚本も同じらしい。
ストーリーはぜひ映画をご覧になってみてね。
おもしろかったです。
マトリックスもこの映画も、
近未来(マトリクスは近未来ってわけじゃないか)の強大な管理社会?
管理国家?管理世界?が舞台で、
なるほど一貫してそういう事を問い直したいわけだな、
と思った。
わたしはどちらかというとアナーキーな考え方にシンパシーを持っているようだから、
どちらの映画にも共感できた。
「V・・・」の方は1980年代にコミック誌に連載された漫画が原作とのこと。
その時代、イギリスなどでは
行き過ぎた管理社会の行き着く先を描いたような作品が
各芸術ジャンルでさかんに発表されたのだそうだ(wiki情報)。
映画としてどうかというと、
うーん、なんか、いまいちスカッとしないというか、
映像としてもそれまでに使い古されたイメージをそのまま使っているというか、
うわービックリ!参った!ってひっくり返るような
インパクトはなかった。
話の筋としても、
程よきところに火箸が・・・ありすぎじゃないか?
と思うくらいにご都合主義という気もする。
うまく行きすぎだろ!という。
でも、なんか残っているのだ。
映像や、役者たちの顔や台詞、音楽。
繰り返し反芻してしまう。
そして考えてしまう。
この日本に、もし、Vのようなテロリストが現れたとして、
自分はどうするのか・・・。
ちょうど、首相官邸前のデモの人数が倍倍で膨れ上がっている最中に観たせいもあるけど。
これこそが制作者の狙いなのだろうけど。
でもなぜこうも残るのか。
特にエージェント・スミスのV。
彼はずっとガイ・フォークスの仮面を付けたままだった。
オペラ座の怪人みたいに。
でもその仮面がすごく表情豊かなのだ。
そしてその話し方や声も。
歌を歌うように。
さすがプリシラでドラァグ・クイーンを好演した人だぁ。
仮面をつけているのに、
その存在感はかえってヒロインをしのいで、人間としてのV、
限りのある命を同じように与えられた人間、として、
わたしの想像力の中で
じわじわと質量を増している。
こういう試みは実際、舞台ではよくある手法なのだろうけど。
映画では、よく役者が「演技をするなと注意をうけた」と言う記事を読む。
(日本だけなのだろうか?)
演技をしない役者というと、一番に思い浮かぶのが、わたしの場合寺尾聡。
「半落ち」(・・・つまんなかった。)のときの彼をみて、
ああ、演技をしないで植物みたいに画面の中に生えたみたいにしていると、
後ろの風景がよく見える、
映画ってそういう風にして世界を見せるものなんだ、
とか思ったけれど、
それを強制的に仮面でやってしまったら?
顔を見せられないってことは、
演技のためのツール(それもかなり重要な)を取り上げられるって事だけど、
欠けているってことは必ずしも悪い事ではない。
顔が欠ければ体が、声が、
普段は目に付かない、耳に入らない情報が入ってくる。
ってことなのかなぁ。
おもしろかったけど、
イマイチなんだよなあ、
と思うのに、なんだかもう一度観たいと思ってしまうのだ。
不思議な映画。
いろいろと抱え込んでいた事々の締め切りが
いっきにやって来て(もっと早くやっとけばこうはならなかったよね)、
忙しかった。
ひとつひとつが片付いて、
だんだんと余裕が出てきたら緊張も緩んだのか、
体調を崩しっぱなしでした。
先週は1日も店に出られないくらいしんどかったけど、
ようやく今日から店番復活。
各方面にご心配おかけして、申し訳ありませんでした。
ぼちぼち調子を取り戻しています。
せっかく落ちたぜい肉だけは取り戻したくないが・・・。
このところずっとブログを更新しようという気が失せていて、
なんでだろうなー、と思っていたのだけど、
そういえば本を読む時間とかホントになかったのだった。
やっぱりまとまった文章を読むということは、
それだけ想像力や思考力を刺激するということなんだな。
言葉に強烈に働きかけるのはやっぱり言葉で、
それは映画や写真や他の芸術作品よりもずっと力強く、
直接的にアプローチされるんだな。
とかしみじみ思った。
考えはまとまらないけど、
いろんなものを読んだり観たりしたので、
リハビリがてら、ちょこちょこ書いていきます。
昨日はDVDで「v for vandetta」を観た。
ナタリー・ポートマンが主演のやつ。
ガイ・フォークスとやらのお面(最近はアノニマスで有名らしいですね。)
を被ったアナーキーなヒーローは、
実はマトリックスのエージェント・スミスがやっていたのだそう。
ヒューゴ・ウィービングという俳優。
しらなかった、プリシラの人だった。
俄然ファンになってしまった。
そしてナタリー・ポートマンの美しさは奇跡だな。
この映画は「マトリックス」3部作の制作メンバーが多く関わっている。
脚本も同じらしい。
ストーリーはぜひ映画をご覧になってみてね。
おもしろかったです。
マトリックスもこの映画も、
近未来(マトリクスは近未来ってわけじゃないか)の強大な管理社会?
管理国家?管理世界?が舞台で、
なるほど一貫してそういう事を問い直したいわけだな、
と思った。
わたしはどちらかというとアナーキーな考え方にシンパシーを持っているようだから、
どちらの映画にも共感できた。
「V・・・」の方は1980年代にコミック誌に連載された漫画が原作とのこと。
その時代、イギリスなどでは
行き過ぎた管理社会の行き着く先を描いたような作品が
各芸術ジャンルでさかんに発表されたのだそうだ(wiki情報)。
映画としてどうかというと、
うーん、なんか、いまいちスカッとしないというか、
映像としてもそれまでに使い古されたイメージをそのまま使っているというか、
うわービックリ!参った!ってひっくり返るような
インパクトはなかった。
話の筋としても、
程よきところに火箸が・・・ありすぎじゃないか?
と思うくらいにご都合主義という気もする。
うまく行きすぎだろ!という。
でも、なんか残っているのだ。
映像や、役者たちの顔や台詞、音楽。
繰り返し反芻してしまう。
そして考えてしまう。
この日本に、もし、Vのようなテロリストが現れたとして、
自分はどうするのか・・・。
ちょうど、首相官邸前のデモの人数が倍倍で膨れ上がっている最中に観たせいもあるけど。
これこそが制作者の狙いなのだろうけど。
でもなぜこうも残るのか。
特にエージェント・スミスのV。
彼はずっとガイ・フォークスの仮面を付けたままだった。
オペラ座の怪人みたいに。
でもその仮面がすごく表情豊かなのだ。
そしてその話し方や声も。
歌を歌うように。
さすがプリシラでドラァグ・クイーンを好演した人だぁ。
仮面をつけているのに、
その存在感はかえってヒロインをしのいで、人間としてのV、
限りのある命を同じように与えられた人間、として、
わたしの想像力の中で
じわじわと質量を増している。
こういう試みは実際、舞台ではよくある手法なのだろうけど。
映画では、よく役者が「演技をするなと注意をうけた」と言う記事を読む。
(日本だけなのだろうか?)
演技をしない役者というと、一番に思い浮かぶのが、わたしの場合寺尾聡。
「半落ち」(・・・つまんなかった。)のときの彼をみて、
ああ、演技をしないで植物みたいに画面の中に生えたみたいにしていると、
後ろの風景がよく見える、
映画ってそういう風にして世界を見せるものなんだ、
とか思ったけれど、
それを強制的に仮面でやってしまったら?
顔を見せられないってことは、
演技のためのツール(それもかなり重要な)を取り上げられるって事だけど、
欠けているってことは必ずしも悪い事ではない。
顔が欠ければ体が、声が、
普段は目に付かない、耳に入らない情報が入ってくる。
ってことなのかなぁ。
おもしろかったけど、
イマイチなんだよなあ、
と思うのに、なんだかもう一度観たいと思ってしまうのだ。
不思議な映画。
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by epsilongstocking
| 2012-07-01 22:39