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ETVの「デザインあ。」は面白いのだろうか。
私はあんまり面白くない。
カタチがきっちり揃ってて面白いのだろうか。
発想が面白いのだろうか。
何が面白いのか、面白いような面白くないような、
面白いとか期待しちゃいけないのか、
いろいろ考えた結果、
私は面白くないんだなと思い至りました。

さっきまで中上健二のエッセイ集「鳥のように獣のように」(講談社文芸文庫)を読んでいたので、
それもあって何か噛み付きたくなりました。
ハイ。いやウソ。いやどっちだろう。

なんだか、「デザイン」の地位が上がる一方のこの100年だと思うのだ。
それでいいのかどうなのか、
分らないのだが。
このどうなんだかよく分らないと思わせられる事態そのものが、
「デザイン」が引き起こす状況のように思えてならない。

前述の本で、中上健二が
説教節の「さんせう太夫」と森鴎外の「山椒大夫」の違いを述べていたのだけど、
鴎外の「山椒大夫」は中世の説教節、「さんせう太夫」を元にしているそうですな。
いろいろ調べたのだけど、説教節の方は人外の扱いを受ける奴隷、被差別民たちの悲惨な実態
にこそ熱を入れて語られるものなのだそうで、
一方鴎外の方は、凄惨な拷問シーンや、最後厨子王が山椒大夫たちに残酷な復讐をする場面を
そっくりそのまま省略し、姉弟、母と子らの愛情を描いた普遍性のある物語に仕上げている。
私は昔これを読んで落涙した記憶があるけれど、
しかし説教節という、やはり差別的な扱いを受ける芸人達によって語られる、
被差別民たちの恨みツラミ、
そして最後には神仏によって救われるというお決まりの筋立て、
中上によればこれこそが人びとの需要であったはずだとの事。
そういう意識から遠く離れて近代があり、
現代に至る。

私はそれを読みながら、
なんとなく「デザイン」のことを考えていた。

「デザイン」って、
まあよく分らないまま自分のイメージを言えば、
「大量生産可能」という言い換えができる事だと思うのだ。

一方「アート」というのは、
「技術」という翻訳にもあらわれるように、
個人の、作家の身体感覚を経てしか具現化できないもの、
アーティストの五感がなければこの世に生まれないもの、
という感じ。
だから作家にしか作り出せない。

「デザイン」と「アート」の違いってそういう事かな。
と思ったりしている。

それで今なんだけど、
とくに若い世代で、「デザイン」と「アート」の区別が無くなりつつあるんではないかと。

たとえば、「グッズ」。
簡単なところではポストカードとかが一般的か。
自分で作った作品、描いた作品のあるモチーフを
大量生産して、
手ごろな価格で売る。
レプリカとも言えないモノを。
そこにどんな意識が働いているんだろうと、
実はかねてから興味がある。
私だって気に入ればそういうグッズは買うが、
モノとして魅力のないものは、
たとえそれが好きな作品でも買わない。

「グッズ」というのは、
作品を記号化したものといえるのだろうか。
それは飽くまでテキスト的な「記号」なのか。
いや、それはその作家の感性によるのだろうと思う。
「グッズ」もこの世に存在する限りはモノとしてのカタチを持っているわけで、
そのカタチの顕れかたにもこだわりをもって、
作品の本質を抽出して具現化し、大量生産可能にする。
これが私の考える「デザイン」的な作業。

この「デザイン」と「アート」って、
真反対の方向を向いていると思うのだ。

モノとしていくらこだわって作っても、
大量生産品として作るためには、
自分の身体を通す工程を見直さなくてはならない。
どこまでその工程を残すか。
それも「デザイン」だと思う。

「アート」、つまり個人の技術。
血、衝動、産土、感情、癖、
そういうものが宿病のように重なってある身体を使って、
この世に生み出される唯一無二の作品。
それが「アート」。

私はそう思っている。

身体って、この世にある事の象徴のような気がする。
身体が存在する内にしか生み出せないもの。
それは全てアートなのかもしれない。
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by epsilongstocking | 2013-06-03 00:19