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毎週日曜日
1/22、 1/29、 2/5
13:30~

都民投票を
実現させるための署名

を、古書上々堂でお受けします。

三鷹市民のかた、
杉並区民のかたが
署名可能です。


受任者(署名をあつめる人)は、
古書上々堂オーナー(杉並区民)と、
アロマヒーリングサロン・ミルン・オーナー(三鷹市民)です。

同時に、
店内に
アロマヒーリングサロン・ミルン
がやってきます。
タロット占い(これが・・・すごいですよ。)*800えん
ハンドマッサージ*500えん




「原発」都民投票
について、
ご存知ですか。

いま、
東京電力管内の
原子力発電所の稼動に関する
東京都民投票条例案の制定をもとめる
直接請求を可能にする
ための署名運動
が、おこなわれているのです。

これは法律によって厳格にルールの決められた方法で、
署名の書式や集めかたも
よくあるアピール署名とはちがう、
法的な効力があるものです。

署名は、有権者が、
同じ区民、市民の受任者(署名を集める人)にしかできません。
22万人の有権者の署名が必要です。
この署名とともに都民投票条例案の制定をもとめる請求を都知事に提出します。
都知事は20以内に議会を召集し、
審議し、その結果を公表しなければなりません。

ちなみに、政治的な活動をしている団体とはぜんぜん関係ありません。
詳しくはこのサイトをごらんください。

古書上々堂では、
この署名活動に参加しています。

どうしてかというと、
直接請求は法律で保障された
私たち有権者の権利で、
これがいったん動き出したなら、
どうしても実現させないといけないと
考えているからです。
どうしてかというと、
これが実現しなかったら、
「私たちはもう言いたいことはないので、
あとはお役所とか政治家とか経済界の重鎮とか、
エライ人たちに全部任せます。」
と、言っていることになってしまうと思うからです。


原発については、
いろいろな意見がありますね。
私たち上々堂夫婦にもそれぞれの意見があります。

これが、
「原発」即刻停止を求める署名
だったら、私は署名はしたけれど、
こうして署名を集める受任者にはならなかっただろうと思います。

これはもう、「原発の是非」を云々するような
問題ではないと思っています。

つまり、
私たちの参政権をどう行使するのか、
もうそれが問われているのだと
私は考えました。

政治についての話題は避けるのが
人付き合いのマナー、
なんて言われたりしますね。

普段なら、そういうあり方もアリ、
と思います。(私はしないけど)

ただ、いまこの直接請求を求める活動が実現しなかったら、
もう東京の有権者は
都知事とか都庁とか経済界の重鎮とかに
原発についての判断を
丸投げしたと解釈できてしまう。
解釈は可能です。
そんなの極論だ、と思うかもしれないけど、
理屈は通るでしょ?
そしたらその理屈はきっと利用されます。うまい具合に。

だから、都民のひとたち、
このブログを読んで、まだ署名してなかったら、
ぜひ署名をしてください。
あなたと、わたしと、
わたしたちの小さな子どもたちに将来、
保障されるはずの、
権利のために。
その責任を、どうか果たしてください。
おねがいします。

期限は2月9日までです
(一部地域をのぞく)
今回を逃すと、法律により
この請求は2度とできません。

この署名をして、請求する内容については、
まずは趣旨です↓

請求の要旨

[1]原子力発電所の存在、稼動は、
東京都民のみならず立地先の住民や周辺住民など、
夥しい数の人々の暮らしや命を左右します。
この「原発」を今後どうするのかという重大な問題を、
これまでのように、国と電力会社と立地先自治体の判断のみで
決めてしまうのは間違っています。

[2]東京電力管内の原子力発電所に関し、
私たちは、主権者、ユーザー(電力消費者)、
電力会社の大株主となっている自治体の住民(東京都は東電株を 2.66%保有する大株主)
として、これに関与する
責任と権利があります。

[3]その責任を担い
権利を行使するために、
東京電力管内の原子力発電所の稼働について、
主権者である私たちが、
互いに議論し意思表示をする
重要な機会として
都民投票の実施を求め、
本条例の制定を請求します。

どんな条例にするのか、条例案は
ここを参照してください。
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by epsilongstocking | 2012-01-22 15:53
吉野朔美の「ぼくだけが知っている」という漫画をご存知ですか。
わたしは知りませんでした。
というか名前は知っていたけど読んだことがありませんでした。

ともかくこの本とっても気に入った。
自分のこどもに読ませてあげたい。だいぶ先の話だけど。
これと「氷の海のガレオン」という本はぜったいこどもに読ませたい。

主人公は小学4年生の男の子で、
地震とか雷とか台風が大好きで、その予測をピタリと当てる、
というか、「分かって」しまう。
勉強はできない。教師からは変わった子どもとみなされるが、
自分はずっと大人だと「知って」いる。
そういう子が4年生になり、強烈な個性の子どもたちが集まってしまったクラスのなかで、
1年を過ごすというもの。
他に登場する子どもがまたふるっている。
「スタイルのない人生なんてクズよ。あんたたちそれで平気なわけ?」
とか言ってのける女の子とか。

作者はそんな子どもたちの日々をまったく温かくない筆致で描き出す。

「氷の海のガレオン」についてはまたいずれ。
これから少女漫画と少年漫画について考えたいのだ。

この漫画、セリフにしろモノローグにしろ、
とにかく言葉がビシッと合っている。
言葉に対する作者のシビアな姿勢が好もしい。
これで言葉がなまっちろい借りもんだったらもうこの漫画はおしまいダ。

絵も好きだ。
でも好きなんだけど、この漫画に不細工はでてこない。
主人公もその友だちも、それから父母も、みんなきれいな顔だちをしている。
それからコマ割も、パッと見きれいなんだけど、
場面の流れとして「?」と感じるところがけっこうある。

そこから、これが少年漫画だったらどうなるか、と考えがとんだ。

物体や人の動きに重きをおいた、きっちりとしたコマ割。
集中線で視線を引きつける。
それからモノローグはなくなる。
そのかわり効果音、オノマトペをがんがんいれる。
セリフは基本的にふきだしの中。(誰が何を言っているのかはわかりやすく。)
画面はパッキリわかりやすく。
キャラクターは一目で見分けがつくように誇張した顔、体つきに。
1話完結でいくならば、起承転結を明確に。

ストーリーものとしてはテーマが地味だし
たいした展開もないので、
やっぱりギャグをいれていくか。

そうすると、この物語は小学4年の少年少女のすさまじい個性がとびかう
スラップスティックコメディになるのだろうか。
「浦安鉄筋家族」みたいな。
「すごいよマサルさん」みたいな。
ネームは多いままでしかもちょっと頭使うかんじでいくとすると、「聖☆おにいさん」か。

以上、「バクマン」的方法論で考えてみた。

で、これじゃもう「ぼくだけが知っている」の魅力はきれいさっぱり、なくなっている。

そんで、ここまで考えてみて、
「ちびまるこ」ってじゃあどうなんだよ、となる。(はい、ついて来てー。)
丁度主人公の年齢も近いし(まるこは小3)、
舞台も学校と家だし、ストーリーもまぁ地味だし、
でもこれはギャグがはいっている。
「ぼくだけが~」ももちろん笑える場面はたくさんあるけど、
それが主目的ではないわけで、いわばこれは「くすぐり」だ。
「ちびまるこ」には笑かそう、笑かそう、という意気込みがちゃんとある。
(笑えるかどうかはべつとして。)
で、これは少年漫画でもいけるかというと、
いけないのだ。
私の思う「まるこ」の魅力は笑いではない。
それはディテールだ。
たとえば道の脇に描かれる板塀、電信柱の上の電灯とか、コタツでミカンとか、
昭和なアイテムが作中で生き生きと存在しているのが好きなのだ。
モノローグのない「ちびまるこ」も考えられないし。
少年漫画のツッコミは主に登場人物によってなされるけど、
「ちびまるこ」においては作者のモノローグによる。

中間地点としては佐々木範子の「動物のお医者さん」とかか。

少年漫画と少女漫画ってどうしてこうも違う進化をしてきたんだろう?
こうして比べてみると、
男の脳と女の脳の違いなんじゃないかと思えてくる。

少年漫画で一番目に付くのは、
動きだ。
動きをいかになめらかにわかりやすく伝えるか、を最重要視していると思う。
それから人物の描き分け。
誇張をふんだんに取り入れて描き分ける。
竹を割ったようなストーリー展開。
人間の内面的複雑さではなく、
ゲームのルール、世界やシステムの複雑さはどんどん増していく。
主要な登場人物もどんどん増える。

ひるがえって少女漫画の環境設定は単純で浅くとも大して問題にならない。
人物の描き分けも、
「作者だけしか分かってないんじゃ?」と思うものも多い。
物にしろ動物にしろ、動きも無いに等しい。
そのかわり人物設定は複雑だし、
人間関係も複雑化しやすいけど、
登場する人数はそんなに増えない。
一定の人間関係を、何度も何度も、別の角度から描き出すことのほうが多い。
オムニバス形式もよくみられる。

少年漫画も少女漫画も、どっちだって面白いものは面白いし、
つまらないものはつまらない。
最近は両者の特徴の中間を行くものも増えている。

でも、これを男の脳みそ、女の脳みそに置きかえて考えてみたら、
結構おもしろいんじゃないのかなあ。
どうして男はメカに強いのか、
どうして女は噂話が好きのか、
やたらと動き回ることが好きな男子、
ままごとを好む女子、
説明が面倒くさい彼氏、
説明をしつこく求める彼女・・・・・

言葉に敏感なのはやっぱり少女漫画のほうだと思う。(独断)
浦澤直樹は少年漫画というより青年漫画かもしれないけど、
すごく好きだけど、登場人物のセリフにグッときたことは、じつはない。
なのに吉野朔美の言葉にどれだけ鼻血がでたことか。
そうそう、「登場人物のセリフ」ではなく、
「吉野朔美のことば」なんだよな。
言葉への志向に執念を感じる。

男、女の二元論で考えるのは好きじゃないけど、
まあこれは思考の遊びです。
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by epsilongstocking | 2012-01-15 23:02

イメージとマテリアル。

30年前。
20年前でもいいや。
バーチャルリアリティだかなんだか、
仮想現実世界だかなんだか、
そういう言葉が飛び交っていた時期があったよね。
ちょっと警戒したかんじで。
たしか。

それから「マトリックス」が大流行りだった。
きみ自身も仮想現実世界の住人かもよ、みたいなメッセージが最後ちょっとあった。
その当時は、なんて平凡な筋なんだ、
と、映像のおもしろさはともかく筋書きにガッカリだったんだけど、
いま見返すとこれがほんとにおもしろい映画なのだ。

わたしは東京に住んでいる。
西荻窪というところで、隣町の吉祥寺までは歩いて30分くらい。
こども連れで出かけるには吉祥寺までが体力の限界だ。

ちなみに新宿はもうわたしのスケールでは大きすぎて掴みきれない。
吉祥寺くらいが適度に刺激も満たしてくれる。
これがスケールとしても限度。

たまに新宿に出てみるとその思いはさらに強くなるけど、
吉祥寺に出てみても、
というか出なくても西荻で暮らしていても、
つくづくこの街はイメージばかり追いかけて
マテリアルに対する意識が皆無に近いと思う。

マテリアルってのは「物質」とか「素材、材料」というイミで、
わたしはその反対語としてイメージという言葉がくるという感覚だ。

つぎつぎに変わる看板、店の内装、
道路工事、建て変わる家々、マンション。
剥がしては貼りつけ、
潰してはまた建て、
灰色の電柱と、電線が、無作法、といった体で街を覆う。
だいたいあの住宅街の道の両脇に意味なくつづく
コンクリやらフェンスの塀ってのはどうにかならんのか~!(心の叫び)
アスファルトもつくづく不合理で不恰好だと思う。
夏は熱をもっていつまでも熱いし
毎日のようにほっくり返してまた埋めるからアチコチ凸凹だし、
地面にフタするんならもうちょっと見栄えのいい方法があるんじゃないのか?
道路わきの側溝もぜんぜん良くない。
なんであんなの並べて平気なの?

で、たまにモデルタイプのようにして
近未来みたいなイカニモな開発をしてみたりするけど、
人の身体感覚を無視しているとしか思えないような
無駄に広い道路(しかもそこは頑固にアスファルトだし)で、
ビル風がびゅうびゅう吹いてて
数年後には立ち枯れそうな街路樹くらいしか緑がなくて、
ぜんぜんステキじゃない。ため息。

新しく建つ家もちょっとはマテリアルを意識した
かっこいい家が建つようになったけど(こういうところは大概外塀はとっぱらっている)、
もう建売の集落とかは大抵無駄な飾りばかりで
そのくせ安っぽい外観だったり(タイルが前面にしかないとか)、
「白亜の城にしたかったのか・・・(苦笑い)」
という感想がかろうじて好意的にひねり出せるくらいの
悪趣味なペランペランの工場住宅とかが大半だ。

なんで空をみない?

空を無視するな~!
空は究極のマテリアルだ。
物質という翻訳はあてはまらないけど、
人間がどうこうしようとしてもどうにもできない。
存在を止めることも直接的に姿を変えさせることもできない。
空はずっと変わらずにそこにあるんだから(当面は)、
まずはそこにあわせてほしい。
うす青い透明な空の色にどうしたってあわない看板や外壁はやめてほしい。握りこぶし。
あと、「レンガもどき」のタイルとか、
さらにその「レンガもどきのタイル」っぽい外壁パネルとか、
そういうものはマテリアルの意味が吹っ飛んでいる。
言語的なイメージしか持っていない。
つまりはじめから物質としての存在感が考えられていない。

この街はおそろしく言語的な展開をしていると思う。

それは物質界からの脱却が
具現化しているってことなのか?
わたしたちの感覚は
物質界から自由になったのか?
看板が提示するイメージを瞬時に脳内世界におきかえて、
わたしたちはイメージの世界を歩いているような気がする。

これが、「マトリックス」の世界なんだ。
主人公が目覚めた世界は、
色のない貧しい世界だった。
コンビニに並ぶお菓子も、
大抵はパッケージに描かれたイメージでもって選ばれる。
わたしたちはイメージを食べている。
ほんとうは、まずいマーガリンの味しかしないチョコレートなのに、
冬のくちどけ、なんていっちゃって生チョコレートを食べているような気分で食す。

この20年で、仮想現実の世界と物質世界はたしかにつながったと思う。
どこからがバーチャルでどこからがリアルか、
わたしたちはもう考えないだろう。

マテリアルに重きをおいた暮らしを家の中ですることはできる。
それを実践する人もたくさんいる。
でもそれもやっぱり閉じた空間でしか可能でなくて、
一歩外に出れば電線だらけの
灰色のマテリアルが広がる世界に呑みこまれてしまう。

なにを選択するかは君次第だ、みたいなことを
たしか映画のラストで言っていたような気がするけど。
さて。

物質世界なんていうとちょっと批判的な響きがつきまとうけど、
わたしはこうして身体という実体を持っているあいだは、
この物質世界ときちんと向き合いたいと思うようになった。

たしかシュタイナーの考えでは、
エーテル体とか霊魂とか、なんかそういうものが4つ重なって
一般的な私という存在になるのだとかなんとか。
死が近づいたりすると、
その4つの重なりがお互いに離れていってしまうのだそうだ。
このイメージにわたしは大いにうなずく。
わたしというこの実体を持った存在は偶然の産物で、
小さな隕石がぶつかりあって星になるように、
広い世界の中で奇跡的に物質界に現れている、
というような気がしているのだ。

霊魂とかなんかそういうものには簡単に戻ってしまう。
だから、いまここで得た、物質界との仲介をしてくれる
身体、というものを大事にしたい。
そしてその身体を通じてしか関われない
この世界のあらゆるマテリアルを身体でもって愛したい。

そんなことを考えて毎日呼吸してます。
だれかこの考えにサンセイの人、手ぇあげて!
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by epsilongstocking | 2012-01-08 22:48