古本屋女房の本とこどもとしっちゃかめっちゃか


by epsilongstocking

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愛と恋と神様。

内田春菊の「わたしたちは繁殖している」をちょいちょい読んでいる。

子供沢山産んで、相手の男もどんどん変わって、
地母神みたいな人だ。
愛に溢れている。
愛と憎しみは表裏一体って言うけど、
この人の憎い人に対する憎しみの表現もあからさまだ。
情の厚い人なんだろうな。
怖い人だな。

店にナン・ゴールディン×荒木経惟の「東京愛」
という写真集が入った。
ナン・ゴールディンはやっぱりいい。
見ているうちに涙が出てくる。
こんな写真が存在しうるのか。
彼女の写真を見るたびにそう思う。
荒木の写真もすごいと思うんだけど、
器がでかいというか、すべてを許しすぎているというか、
私にはひりひりこない。
ナンほどひりひりする写真に出会ったことはない。
ナンは恋。
荒木は愛。
そういう感じか。ざっくりだけど。

なんでそういう感じがするのか、っていうのははっきりしないんだけど、
ナンに撮られた写真の人の目は、
濡れて揺らめいているように感じる。
あれが、不安定な印象を持たせるというのか、
うつろい、とか、はかなさ、とか、無常。
死の予感。
それだからこそ感じる愛情。
死に裏付けられた愛。
そういうものを、恋として、
ナンの写真は恋情なんだと思うのだ。

で、荒木にも死はあるんだけど、
そこには恐れが感じられない。
ナンにはある。死に対する畏怖がある。
荒木は死をも愛でくるんでいるというか。
愛で受けとめているというか。
どっしり安定している。
大丈夫だよ、なんでも愛するよって言いつづける。
肉体の崩れは死を予感させる。
醜さも、やっぱり死を感じる。
「醜く崩れた」肉体を撮るとき、彼は死に挑んでいるのかもしれない。
死を愛そうとしているのかもしれない。
そこにも狂おしい愛がある。
でも私にはまだ遠い感情みたいだ。
荒木の写真みたいな人間になりたいけど、
今は、まだ、ひりひりするような生と死への畏れの中にいる。

内田春菊にはそういう思想を感じない。
死も生も、感じたままに思考して、それを哲学しない。
これって神様みたいだと思うのは私だけなのだろうか。
私の神観は、まさにあるがままをあるがまま身体に通す、受容そのものを体現する存在だ。
内田春菊の生きる態度は、
実は「yes。」しかなくて、「no。」がないんじゃないかと思うのだ。
だからこそ、憎むべき男に何度も出会って、
同時に愛すべき男にも出会うんじゃないか。
うまく言えないんだけど、自分に対するnoがないんじゃないのかな。
出会うもの出会うもの、感じる事、すべてyesで生きている。
神様だな、と思うのだ。
畏れがないからnoがないのだ。
痛い目もみるけど、でもnoはないのだ。
超越してるのだ。
内田春菊は、存在そのものが伝説になり得ると思う。

私は、用心深くて、平凡なnoばっかりの人間なので、
それなりに小さくまとまって生きると思う。
哲学する人間と、哲学しない神様。
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by epsilongstocking | 2011-09-28 20:18
最近、ぼんやり民放TVのCMを見ていて、
ぎゃー、と思った。

当たり前のことなんだけど。
CMって、ぜんぶ、「お金使ってね」というメッセージなんだ、
ということに思いいたって、
気持ち悪くなってしまったのだった。
出てくるCM出てくるCM、みんな
買って買って買って!
と言ってるわけで、
これを何とも思わずに受けとめていた自分の今までの
在り方に、身がすくんだ、というか。

焼酎の二階堂のCMとか、大好きなんだけど、
でもこれも、「買ってね。」
というお話なのであって、
どんなに膝を打つような面白いCMに出会っても、
それは「買ってね。」をうまく言ったに過ぎない、CMなのだった。
(公共広告機構のCMはそれ以上に気持ち悪いけど。)

CMばかりでなく、TVの番組も最近は
商品タイアップだかなんだかしらんけど、
露骨に「買おうよ!」と言ってくるので、
これまた気持ち悪くて、
見ようという気がどんどん削がれる。

思えば、私の暮らしている世界は、
お互いに買ったり買われたりしないと
立ち行かないような暮らしをしている。
消費社会、と言葉でくくると亡羊としてくるイメージだけど、
これはつまり、
「買わないと回らない世界。」
ってことだよね。

消費のメリーゴーラウンドが、
どんどん加速していって、
そこから振り落とされまいとみんな必死にしがみついて、
そこでも必死に消費して。
私にはいまの自分の暮らしがそいういう風に見えてきた。

これを、降りてみたら、どうだろう?
さて、そう考えると、
ためらう自分を発見する。
なんで躊躇うのか。
つまり、メリーゴーラウンドの魅力はなんなのか。

お金を使わずに生きようとすると、
つまり全部を自分でやらなくてはならない。
人の手の役割をお金が替わって、補っているのだ。
服を縫うのも、服の生地を作るのも、
野菜や米を作るのも、家を修理するのも、
そのための木を切り出すのも、
お金を使わなければ、
自分でやるしかない。
それではどうにもできない。
やれる事は限られてくる。
昔の人は、そういう事に
時間をいっぱいとられていたにちがいない。
限られた時間の中で、
やれる事、どうしてもやらねばならない事だけをやっているだけで、
もう一日が終わってしまう。
だから必然的に、暮らしはシンプルになるのだ。

私たちの暮らしは、
さまざまな仕事ををお金が解決してくれるから、
時間が短縮されて、他にもやりたい事ができるようになった。
そのうち、やりたい事がいつの間にか、やらねばならない事になってきて、
それがどんどん増えていって、
結局お金が増やしてくれた時間も、
欲張りな私たちはどんどん使ってしまう。
お金はどんどんいろんな可能性を私たちに教える。
あそこに、自分では作れないようなおいしいパンが、
あそこに、自分では作れないようなすてきな洋服が、
あそこに、自分では演出できないようなすてきな部屋が、
あそこに、自分では書けないようなすてきな文章が、
あそこに、自分では描けないようなすてきな絵が。
自分にできない事を、
お金が替わって人にやらせてくれる。
それを払いさえすれば、私はそれを自分のものにできる。

消費社会っていうのは、
そういうことなんだと思う。
自分の代わりにお金がなんとかしてくれるのだ。
お金はどうやって稼ぐかというと、
ほかの人がやって欲しいことを自分が代わってやれば、もらえる。
お金をやったりとったりすること、っていうのは、
つまりこういう事のためなんだ、と
私はそいういう認識でこの社会に生きている。

いろいろ思って、私は、結局、
このメリーゴーラウンドそのものを否定する気持ちにはならなかった。
でもこの追われる感覚は何とかならんか、と思う。
このメリーゴーラウンドのスピードを落としたければ、
簡単なこと、
足るを知ればいいのだ。
雑誌やTVでとりあげられているようなスローライフは、
お金がなければできないけど、
自分は何が足りていればいいのか、
削って削って考えていけば、
いらないものは追わなくても大丈夫、と思えるだろう。
街は魅力的なもので溢れていて、
買って買って買って!って言っている。
それは魅力的だけど、
全部を求めたら苦しくなるよ、
って、自分に言ってあげるのだ。
結構キツイかもね。

足るを知るにはそれだけじゃなくて、
欲しい、と思う心に歯止めをかけるために、
その欠落感を埋めるために、
自分が満たされることは何なのか、
もっともっと研ぎ澄まして考える事が必要かも。
私の場合は音楽と裁縫で、
とりあえずそれが満たされればいいのかもしれない。
恍惚となる。

あとは掃除か。
掃除すると、ほんとに物って少ないと気持ちいいなと思う。
もうどんどん捨てる。
これについてはまた今度書こうっと。
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by epsilongstocking | 2011-09-07 14:41