古本屋女房の本とこどもとしっちゃかめっちゃか


by epsilongstocking

1日48時間。

シュタイナー関係の柔らかめな本が数冊入荷した。

ゆったりした生活だなあ。
こんなのうち無理。

思うに、一日のうちでやる事をぱんぱんに詰め込んでるのだ。
だからせかせかしちゃってる。
でももう「やりたい事」と「やらなきゃいけない事」で、
やっぱりぱんぱんになってしまう。

1日24時間という設定を解いてみたらどうだろう?
幼稚園やら学校やらは1日24時間を前提にしているから、
こどもたちはそうはいかないが。
大人だけそうしちゃう。

だいたいもともとが、
我が家は食事の時間も形態も毎回まちまちだ。
基本的に台所に立ちたくないので、
立たないように立たないように、
野菜切っただけとか納豆まぜただけとかで済ましている。

食事の習慣てほんとに必要なのか?
というのはかねてからの疑問だ。
ほんとに1日3食である必要ってあるのか?
3度3度食卓に座って食べることにどんな意味があるのか。
私は正直、分からない。
食べたいときに食べたいスタイルで食べるのが好きだ。
フランス映画とかで、
カフェオレボウルを無造作に持って立って飲むシーンとか見ると、
すごく素敵だと思う。
逆に家族みんなが揃って食卓についてご飯をたべるシーンは、
洋の東西問わず
「抑圧」の象徴として感じるのは私だけかなあ。

『オリーブの森で語りあう』
という本があって、
ミヒャエル・エンデと他有名な人が3人で
ユートピアについて語り合うという内容らしいけど
私はその触りの部分しかまだ読んでいない。
でもすてきな本だと思っている。
時間をかけて何度も読むつもりだ。
その中で、
エンデ夫婦は毎日の習慣に囚われずに
一日一日を新しい気持ちで迎えることができる、
といったことが書かれていて、
心にずっと響きつづけている。

朝起きて、
さて、今日はどうして暮らそう、と考える。
もしくは計画をしないで取りあえず起きて散歩に出かける。
計画はなるべく立てない。
そういう一日を過ごすとして、
たぶん何もしないまま夜を迎えるだろうと思う。
そのとき、「ああ~、しまった、もう一日が終わっちゃう。」
と思うのが一番いやだ。
そのとき、「ああ、暗くなったなあ。」
と淡々と受け止めて、ロウソクでも灯して(暖炉といきたいけど。)、
夕食に簡単なものを用意してゆっくりと食べる、
そんで映画を一本観て寝る。
朝、また起きて、その日の朝を感じる。

無為、といえば、無為。
でもこの暮らし方に膨らみをもたせるには、
相当の修行がいるように思う。
私はいまのところぜったい「ああ~、何もせずに一日がああ。」
と頭を抱える人だ。
貧乏症なのだ。
灰色紳士(by「モモ」エンデ)の思考方法だ。
時間を切り張りできると考えているのだ。
この時間をこれに当てて、
その中でこれだけの事をやる、という発想。
時間は区切ったりできるものではないのに、
そいういう錯覚から抜け出せないのだ。
1秒が60回きて1分で、1分が60回で1時間、
1時間が24回を数えてこれが1日。
という思想から抜け出したい。

強制的に抜け出す手段として、
1日を48時間と思うことから出発してみると、どうだろうか。
まずはそこから時間の観念を強制的に狂わせていく。
朝は起きねばならないのではなく、
夜は寝る必要はなく、
食事は3度ではなく・・・。
引きこもりとどこが違うの?
って、引きこもりとは明らかに違うのだ。
つまり、1日を区切っていない事が大事なのだ。
習慣を一切無視する。
朝も昼も夜も決まったことをしない。
引きこもりにも一定の習慣は生じると思うけど、
そういう習慣をどんどん無視して、
思いついたときに思いついたように行動する。
隠居か?ただの隠居か?

でもそれを店をやりながらやっちゃう。
早朝から開いている古本屋。
店主が歯磨きしている古本屋。
たまに風呂に入りに消える店主。
食事をしながら本を仕分けて、
コーヒーを上手に淹れて客にも勧め、
ミシンを出して雑貨づくりをしたりもする。
で、夕方に閉めちゃって、
夏の夕方は家で過ごす古本屋。

儲からんな。
というか、たぶん潰れるな。

というようなことを夢想しつつ、
明日の弁当の算段をしている私。
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by epsilongstocking | 2011-06-12 21:17